【2つの小貫集落】
十日町市にかつて小貫という集落がありました。旧松代町小貫と旧十日町の中条・飛渡の小貫の「2つの小貫集落」が閉村に至った経緯などを考えていきます。「小貫(こつなぎ)」という地名には、大道と小道、集落と集落を繋ぐ交通路の要や峠から降りた地点という意味があり、交通の一服休みの場所に立地した集落と考えられます。
2つの集落は平成4年と平成19年に閉村となっており、それぞれ400年、800年の在住の“証し”が「碑文」などとして遺されています。それぞれの集落は数百年の長きにわたって、地域の自然環境に適応しつつ、農業や暮らしを創意工夫し、それぞれの集落の歴史・文化を築いてきました。また、こうした各地区独自の農業や暮らしの多様性が、地域全体の生態系を支えるとともに、自然災害や社会環境の変化への適応力を高めてきました。
碑には昭和時代の「戦後所得倍増論国策」に共鳴され村を離れる人後断たずとあり、また、昭和・平成時代の市町村大合併による各地区の共同施設等の統廃合が進むなど、地域コミュニティが崩壊し農業生産性が衰退し集落として立ち行かなくなった理由なども「閉村の碑」の碑文や土地利用の跡などに垣間見ることができます。
こうした中、近年、種苗の知的財産権の保護を目的に「種苗法」が改正され、各地域の農家が伝統的に維持してきた独自の「自家増殖」が制限されるなど、農業の多様性の維持が困難になることが懸念されています。産業や経済のグローバル化が進み、気候変動問題が顕在化する今日、地域農業のかつての多様性が持続可能な発展に寄与してきた役割をもう一度見つめ直していくことが大切です。
「昔はみんなたのしかった 文化人類学手法によるフィールド・ワークから」(旧十日町小貫集落設置作品)
飛渡・中条の小貫集落は、昭和時代の国策である「戦後所得倍増論」や昭和・平成時代の市町村大合併などに伴う、離村や地域の共同施設等の統廃合により、地域コミュニティの崩壊や農業生産性の衰退が進む社会情勢の中で、平成16年10月の新潟県中越大地震が契機となり離村が相次ぎ、同19年に閉村に至っています。
遺されている村史、郷土史などによると小貫集落の人口は、江戸時代の元禄5年(1692年人口20)との記載があり、明治10年には人口112人との記録があり、以降、昭和45年~60年にかけて人口が80~38人で推移していました。戦後の昭和22年には、集落の最高人口として世帯数20戸、人口185人、子供50人とあり(国勢調査)、閉村時には4世帯12人まで減少しています。
ここには長い郷土史を通して様々な共同施設が設置されており、興味深いものがあります。農協(小貫農協・昭和33)、共同作業場、診療医院、養魚池、小学校、共同竈、神社、農道、墓地、簡易郵便局、寺院、発電用の取水堰、石積み橋梁、植物(樹木・樹種)、自然災害(洪水、地震)、明治時代の感染症の“はやり”などです。この明治12〜13年のコレラ、腸チフスといった感染症の発出と神社との関わりについてはコロナ禍の時節柄大変興味深い記録が残されています。
今回のプロジェクトでは、こうした過去の集落のありようやそのための施設を文化人類学的な調査手法によって、往時の集落の平安な暮らしの歴史を明らかにしようとするものです。
先ず、集落の中心で経済社会生活の要であった農協建屋があったと思われる地点を中心として直径300メートルの範囲で、集落の往時の表土面を露出させ旧集落や暮らしの痕跡を見つけ、何故ここに集落が形成され、何故閉村したかを考え、将来に生かしていくことが、本調査の目的です。この農協跡のすぐそばには、人々の離村を決定づけた中越地震によって生じた地割れの跡も見ることができます。
当時の地形、傾斜、植物、敷石、養魚池、竈、広場、寺社、墓地、御堂、村道跡、平成16年の新潟中越大地震時の地割れ跡などはほぼわかっておりますが、すでに消滅してしまった多くの事物についても、地域の人々の話をもとに調べていくことにしています。コミュニティのあり様を探るためにここでは往時の集落住民の村内での日常生活の往き来の跡を遺している小路を辿り黄色いポールで再現してみました。こうし共同社会生活のしきたりの基本でもあり、人類学上の時代区分の目安となる葬送の慣習について、土葬や火葬の時期などについては現集落の長老からは確証を得られませんでした。ただ葬送に際してかつて祖先の叡智を引き継ぐ骨を喰む慣習があったことは確かめることができました。今後の調査で明らかにされるべき課題は多岐にわたっています。
(作家コメント)
作品番号 | T406 |
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制作年 | 2022 |
時間 | 日中 |
料金 | - |
エリア | 十日町 |
集落 | 旧小貫 |
マップコード | 140 221 054*41 |
場所 | 十日町市中条丁 |